古本のおひさま堂がゆくわよ!

子どもの本に囲まれて暮らすおひさま堂が記す、絵本と児童書の紹介・感想・覚書

知らない本を偶然手にするという、ひと目ぼれ的読書の楽しみ

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駅前に本屋がない街を実感したことがなかった。

それが、都会育ちの思い上がりだと気が付いたのは、那須に移り住んでからである。

家族や友人との待ち合わせは、喫茶店よりも本屋が多かった。携帯電話などなかった時代でも、本屋での待ち合わせなら少々待たされるのは全く気にならなかった。新聞や電車の中吊り広告で見た本を探したり、好きな作家のコーナーを徘徊したり、それは待ち時間を忘れさせてくれるほど楽しい時間だった。

本屋でとりわけ楽しいのは、全く知らない本との”偶然”の出会いである。

タイトルだけでなく、作者の名前も知らない本に目が留まる。パラパラとめくって、読むかどうか迷う……。いや、迷うというのは嘘かもしれない。実のところ、手に取った時点で読む気満々のことが多いのだ。その時に購入しなくても、結局気になり続けて後々購入することもある。

まるで、ひと目ぼれだね。

ひと目ぼれだから、「こんなはずではなかった!」ということもないわけではないが、当たりの確率が極めて高い。本屋を彷徨すればするほど、その確率が高くなっていくような気がする。動物的カンが研ぎ澄まされるのか?

例えば、過去にはこんな出会いがあった。どれも、とても面白かった。

鳥類学者 無謀にも恐竜を語る (生物ミステリー)

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『ちびくろサンボ』絶版を考える

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なぜ数学が「得意な人」と「苦手な人」がいるのか

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 偶然という形での本との出会いは、新しい知識や物語と出会うだけでなく、これまで知らなかった新たな自分自身との出会いももたらしてくれる。「あっ、私こんなことに興味があったんだ!」「私の考え方は頑なすぎるかも……」そんな気付きが楽しい。

出会いが偶然というところに、ちょっぴり運命的なものを感じてみたりもする。乙女心というやつだよ。

その楽しみを、今はなかなか味わうことができない。だって、最寄りの駅だけでなく新幹線がとまる駅の近くにも書店がないし、そもそも15km圏内に児童書専門店以外に本屋はないのだから。本屋がない街は本当にあるんだよ……。

「ちぇっ!」と舌打ちしたくなる。

そして、舌打ちしながら今日も Amazon で本を買う。

那須はいま雨。あ~~、本屋に行きたい! 本屋で、まだ見ぬ本に”偶然”出会いたい! 雨模様のこんな日は、書店が無性に恋しくなるのだ。

 

『ヘンゼルとグレーテル』 井上洋介さんは小さい読者の心象を描いたんじゃないかな?

おなじみのグリム童話ヘンゼルとグレーテル』は、多くの絵本作家さんが特徴のある作品を発表している。

その中で私好みの絵本が、矢川澄子さんが再話し、井上洋介さんが絵を担当したこの作品である。

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矢川さんの再話は、昔話の語り口のようで読みやすく、読み手も楽しみながら読み聞かせできる作品だと思う。

ところが、この井上さんの絵については、賛否両論いろいろな意見を聞く。

批判的な意見の中で最も多いのが、お菓子の家の大きさに関するものだ。表紙でわかるようにお菓子の家が小さすぎるというのである。不正確な(?)構図への違和感が批判的意見の中心になっているようだ。

たしかに兄妹が、後に魔女によってこの家の中に招き入れられることを考えれば、このお菓子の家はありえないほど小さい。さらにもっと奇妙なこともある。兄妹を取り巻く黒い森の木々がそのお菓子の家よりもずっと小さく描かれているのだ。これはいったいどうしたことだろう? 私は、作者は明確な意図を持ってこの大きさで描いたと考えている。

まず考えられるのは、実際にはありえない大きさは、2人が、恐ろしい魔女の住む特別な異世界迷い込んだことを表わしているのではないかということだ。実際、物語の冒頭で登場する、ヘンゼルトグレーテルの家の大きさは、とても常識的に描かれており、違和感があるのはお菓子の家が登場するシーンからなのだ。

ただし、予兆はある。夜の森を徘徊し始めたシーンは、たしかに暗闇の怖さがある。でも、木々の姿形は、いつも見慣れた森の木の形であり、夜が明ければ、そこにいつもの森が広がっていることを想像させる。

ところが、3日目からは森の様子が変わってくるのだ、木々の形がその前ページとは明らかに違う。見ようによっては、闇に潜む顔や目・人の形などを連想させる線が、木の表面や陰に見え隠れしている……。その森の様子だけで、何かが起こりそうだと感じ入るし、お話を知っている子は魔女の登場が近いことを知るのではないだろうか?

お話の世界に没頭している小さな読者に、じわりじわりと忍び寄ってくる異世界を連想させる上手い絵だなと思うのである。

さらに言えば、このお菓子の家や森の木々の表現は、小さな読者の心象をストレートに表しているのではないかとも思う。

お菓子の家は、ほかのものに比べてカラフルだけれど、どこか暗い……。お菓子の家を無条件に喜ぶヘンゼルとグレーテルに対して、まやかしが潜んでいることに気づき始めている小さな読者たち。

ヘンゼルとグレーテルにとって、不気味な森の木々が気にならなくなるほど嬉しいお菓子の家の発見とそこに潜んでいるかもしれないまやかしへの不安……小さな読者はその両方を感じ取り、井上はその小さい読者の心象に寄り添って、お菓子の家を描いた。私にはそんな風に思えるのだが、いかがだろうか?

井上洋介さんは、絵本の中にほんの少し奇妙な世界を取り込むのが、とてもうまい作家さんだった。『まがればまがりみち 』や『ならんでるならんでる』などで井上さんの世界にはまってしまった人も多いことだろう。『くまの子ウーフ 』のような、無邪気な絵もよいけれど、時にはこんなちょっとドキドキの異世界を描く作品も面白いと思う!

 

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『帰命寺横丁の夏』 謎解きも楽しいミステリー的ファンタジー

柏葉幸子さんの作品からは少し遠ざかっていた。

私の読み方が浅いのかもしれないが、代表作である『霧のむこうのふしぎな町 』も『りんご畑の特別列車 』も好きな作品だけれど、なんとなく読み終わってから大満足という感じにならなかったから……。

イデアも物語の世界観も申し分ないのに、肝心のところでいつもはぐらかされてしまうような、消化不良な読後感が続いていたのでね。

「えっ? なんで? それで終わり? あと少し書いてほしいなあ……」そんなモヤモヤを味わうのが嫌で、無意識のうちに避けていたのかもしれない。

でも、もしも、同じような方がいらしたら、この夏には『帰命寺横丁の夏』をぜひ読んでみて欲しい。柏葉さんお得意の「温かで不思議なファンタジー世界」を満喫できるだけではない。随所にちりばめられ謎には過不足なく伏線が張り巡らされ、伏線を丁寧に回収していくさまは、まるで上質のミステリー小説のようで見事だ。予想に反した意外な結末も好き。

5年ほど前に刊行された作品だが、未読の方にぜひすすめたい!

主人公は、小学校5年生のカズ。昔、帰命寺(きみょうじ)横丁と呼ばれた場所に立つ旧家に住んでいる怖がりの少年だ。そのカズが、夏休みも近いある夜自分の家で白装束の不思議な少女を目撃する。

「ええ~、幽霊ものなの?」いや、そんな風に決めつけるのはまだ早い。翌朝学校で、カズはその少女に再開する。名前はあかり。不思議なのはそれだけではない。クラスメートやご近所の人、さらにはカズの家族まで、みんな あかりのことをよく知っているという。あかりについての記憶がないのは、カズひとりだけなのだ。

混乱するカズであったが、どうやら謎のすべては帰命寺につながっているらしいことをつきとめる。そこで、夏休みの自由研究を口実に、帰命寺について調べを進めていく。だが、それを快く思わない大人たちがいた!

祈れば生き返ることができる帰命寺様の存在。そう、あかりは帰命寺様の力で、生き返りし者であった。その秘密にたどり着いたカズは、大人たちからあかりを守ろうとするのだが……。

カズの想い、大人たちの想い、そしてあかりの想い……どれが正しく、どれが間違っているとは定められないそれぞれの想いが錯綜する中で、カズやあかりは、そして大人たちは、それぞれが納得できる未来を導き出すことができるのだろうか?

三者の中で、とくに、あかりの想いがやるせない。あかりは死を経験している。生きることに希望を持ち、今この時に存在していることに幸せを感じている。だからと言ってこの作品は、「読者も、あかりのように毎日毎日を精いっぱい生きよう!」などという道徳の教科書のような安っぽい結論にはならないし、「夏休みの間だけ精いっぱい生きて、生きることの大切さをカズに教えて消えていった幽霊」などというありきたりな登場人物の姿も用意されていない。

あかりは強いのだ。そして、その強さの理由に通じる物語が作中に登場する。未完の作品として語られる「月は左にある」である。それは西洋を舞台にしたファンタジー。ここにもまた、よみがえりし者が登場する。この物語を書いた人物ミア・リーとはだれなのか? その謎を解き、「月は左にある」が完結するとき、『帰命寺横丁の夏』という物語に「始まり」ともいえる「結末」がおとずれるのだ。

個人的な好みで、もうひとつ、挿画を手掛けた佐竹美保さんにも触れておきたい。佐竹さんは、金原瑞人さんとのコンビ作品に代表されるような西洋ファンタジーの描き手というイメージが強いが、数十年前の下町を描いたと思われる本作の表紙に唸ってしまった。 今回、半分はこの表紙にひかれて手にしたようなものである。

最初は気付かなかったが、表紙には作中物語に登場する西洋の魔女の姿がさりげなく描かれている。やられたあ! これだから、佐竹さんの絵は、いつも、ぼうっと眺めているわけにはいかないんだよね。

本当に偶然で、意識的に選んでいるわけではないのだが、今年は結構読む本に作中物語が登場する。例えば『ヒットラーのむすめ 』、例えば『不思議を売る男』、そして今回の『帰命寺横丁の夏』。いずれもメインストーリー・サイドストーリーともに面白く、大満足の作品ばかりだ。

1つだけ残念なのは、おひさま堂に『帰命寺横丁の夏』の在庫がないことぐらいだね。

 

帰命寺横丁の夏

帰命寺横丁の夏

 

 

『口笛のあいつ』 港・密輸・やくざの抗争そしてブルーのコートの女、そんな児童書読んでみない?

児童文学では、闇にうごめく強大な敵との対決を描くファンタジーは多い。

例えばハリー・ポッター、例えば『ホビットの冒険』……本好きな人なら、いくらでも書名を上げることができるだろう。

だが『口笛のあいつ』は、同じく闇にうごめく敵を描いても、そういったファンタジーとは一線を画すとんでもない作品だ。

舞台となるのは架空の港町。主人公の勝次は妹のよし子を連れて、深夜の港を徘徊している。なぜ? 彼は家に帰りたくないのだ。家では両親が仲間とともに花札やマージャンなどの博打に興じている。おそらく、子どもたちが出て行ったことに気づいていないか、気づいていても好都合と思っていたのだろう。

お話は、初版が出された1969年より少し昔のことだと著者はいう。こんな設定がそれほど奇妙でない時代が、日本にも確かにあった……。

夢か現実か、はっきりそれとはわからない中で、兄妹は口笛を吹く男マルクと出会う。胡散臭いというよりは、もっとねっとりしたコールタールのような闇を感じさせる男だ。だが、彼の口笛はなぜか童謡「夕空はれて」なのである。

一方、もう一人の主人公不二夫も、口笛を吹く男デイルに出会う。デイルが吹く口笛の曲も「夕空はれて」である。不二夫は、勝次の同級生だ。そして、不二夫もまた、家庭に問題を抱えている……。

二人の少年は、それぞれが出会った男に犯罪のにおいを感じ、それぞれ独自に調査を進める。彼らの前に、次々に現れる大人たちは、それぞれに少年たちを取り込もうとする。ある男は少年に金を渡し、ある女は遊園地へと誘う。目的は何だろう? 少年たちを麻薬の運び屋にしようというのか?

物語の中では、♪キサス・キサス・キサス♪(それは、アイ・ジョージザ・ピーナッツがカバーしたキューバの曲である)が流れる喫茶店や、輸入品を扱うテーラーなど、いかにも港町にふさわしい場所が描かれて、時代の雰囲気をよく伝えるのだが、その臨場感に反して、現実に起きているのかいないのかはっきりとはわからない謎が、次第に増え深まっていく。

  • 行方不明となった勝次の両親の行方
  • 賭博の胴元に預けられているという妹のよし子
  • 密輸組織の仲間かもしれない不二夫の兄

ところが、それぞれのその後が語られぬまま、物語は唐突に終わりを迎える。

えっ? それで、終わり? 

昭和20年代から30年代にかけてのリアルな日本の描写に対して、あまりに掴みどころのないストーリーに、何とも言えない気持ち悪さが残る。とはいっても、決して批難しているわけではない。

むしろ「日本に、こんな児童書があったのか?」と驚いている。

不条理劇を見たような、独特な読後感に酔っている。

主人公の年齢から考えれば、本書の対象年齢は小学校高学年からということになるのだろう。小学生にこんな本を読ませるのか⁈ いや、すごい時代もあったものだと思う。いろいろな意味で、本気の児童書だね。残念ながらすでに絶版。しかも、流通の少ない稀少本。ねえ、たまには、こんな児童書を読んでみない?

 

 

戦争について考えるきっかけに!『ヒットラーのむすめ』

戦争について考えるきっかけに『ヒットラーのむすめ』をおすすめしようと思う。この本のテーマは、戦争ではないかもしれないけれど……。

この作品は、実に不思議な物語なのである。

子どもたちがスクールバスを待つ間に始めた「お話しゲーム」。もともとは、新入生トレーシーを退屈させないために何度か繰り返したお遊びだったが、トレーシーの姉アンナが今回選んだテーマは、ヒットラーだった……。

いつもは、冒険活劇や戦闘のお話を好むマークだったが、その時ばかりは、なぜかアンナのお話にぐんぐん惹きこまれていく。そのマークを通じて、戦争のこと、戦争を容認した人々のこと、正しいこととは何かということ、自分の頭で考えるということ、大人が子どもに接するときの態度などなど、様々な問題提起が行われる。

メインストーリーの中に「ヒットラーのむすめのおはなし」が入れ子になった構成で、読みながら、上記の問題提起について読者もまた考えながら本を読み進めていくことになるだろう。

巧みな構成が、読者を捉えて離さない。読了までおよそ2時間ほど、読者を全く飽きさせずに読ませるのだから大したものだと思う。

これまで軽いノリで「お話しゲーム」を楽しんでいたはずのマークが、なぜ今回だけ急にヒットラーの娘のお話の虜になったのか……最初はその点に違和感を持ったが、読み進むうちにそのことを忘れている自分に気が付く。そして、正直なところ7割くらいは予想できた結末が、その違和感を払拭してくれた。

フィクションならざるものの力ということか? いや、このお話はもちろんフィクションということなのだけどね。そんな矛盾を当たり前のように内包しているところが、この作品を不思議な物語と感じさせる所以なのかもしれない。

いわゆる日陰の身でありながら、賢く冷静に生き抜いたヒットラーの娘ハイジのお話のテーマは、もちろん平和ということ。

一方、その物語を聞き、考えるマークの姿からは、「自分で考える」ことの大切さが浮かび上がってくる。

ハイジのミステリアスな人生と、オーストラリアの少年の普通(?)の日常が絡み合って不思議な世界を作り上げている。

毎年の夏休み、終戦記念日が近づくと、戦争の本を読む人も多いだろうが、戦争の悲惨さを直接伝える作品ばかりでなく、時にはこんなお話もよいのではないかと思う。このお話なら、読者も戦争について「自分の頭で」考えることができるだろうから……。

 

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広島の語り部たちがいつもINGで語り続ける絵本 『さがしています』

前回の『キンコンカンせんそう (講談社の翻訳絵本)』に続けて、アーサー・ビナード氏の絵本を紹介することにした。

 

さがしています (単行本絵本)

さがしています (単行本絵本)

登場するのは、広島平和記念資料館所蔵が所蔵する原爆投下時の遺品である。これは、それらの遺品が語り部となって、1945年8月6日8時10分の広島を語る写真絵本である。

刊行されたのは2012年7月だ。アメリカ生まれの詩人・アーサービナード氏が、これまでのどの戦争絵本にもない独自の視点で、語り部たちの言葉を通訳していく。

 

語り部たちは それぞれ、自分にとってかけがえのない大切な者(時にはモノ)を探している。

 

たとえば、表紙のカギがさがしているのは、自分たちの「やくめ」だ。彼らはアメリカ人捕虜を閉じ込めていた部屋のカギである。あの日、閉じ込められた兵隊も、閉じ込めた兵隊も、一瞬にして同じように消えてしまった。人を閉じ込めてなんになるのか? 閉じ込めなければいけないのはウランじゃないか? カギたちのやくめをさがす旅は今も続いているのだ。

 

レイコちゃんのお弁当箱が、さがしているのは彼女の「いただきます」の声である。お弁当の中身を守ろうとしてひしゃげたお弁当箱。中に滲みてきたほうしゃのうの精でもちろんご飯は食べられない。だが彼はレイコちゃんが言えなかった「いただきます」のひと言を今も探し続けている。

 

恥ずかしいことだが、何も知らず、何もわからぬ、私などが戦争絵本の紹介をしたところで、おそらく芥子粒ほどの役にもたつまい。だがこの絵本は、ページをめくるたびに静かな語り部たちの言葉が、心に染み入ってくる。ページをめくるたびに、厭戦感がじわりじわりと広がっていく。その感覚は、声高に叫ぶ「反戦スローガン」を聞いた時よりもずっと現実感のあるものだった。

 

きっと、名うてのコピーライターたちが束になってかかっていっても太刀打ちできない言葉の重み、そして歴史の真実。せめて、さがしつづけるモノたちからの言葉を真摯に受け止め、平和を人任せにしないでいきたいとあらためて思う。

肩の力を抜いて読む反戦絵本『キンコンカンせんそう』

前回の記事を受けて、家庭でじっくり読んでいただきたい「平和や戦争」をテーマにした絵本を何冊か続けて紹介したく思う。

 

最初になにをとりあげようかと迷ったが、『青矢号―おもちゃの夜行列車 (岩波少年文庫)』や『チポリーノの冒険 (岩波少年文庫)』を書いたジャンニ・ロダーリの反戦絵本『キンコンカンせんそう (講談社の翻訳絵本)』はどうだろうか。

キンコンカンせんそう (講談社の翻訳絵本)

「そのころは みんな せんそうをやっていた」の一文から、この物語は始まる。いつ、どこともわからぬ場所のお話。まるで「むかしむかし あるところに」で始まる昔話のようだが、いつ、どこともわからぬ場所のお話は、いつどこで起こってもおかしくない話なのかもしれない。

 

とにかく、みんなが戦争をやっていた時代のこと、戦争が長引きいつ終わるともわからぬ中、武器をつくる金属が足りなくなってしまった。そのとき、軍部のトップがあることを思いついた。教会や学校に残っている鐘を集めて武器を作ろうというのだ。日本の戦時中も、国家総動員法に基づいて金属供出が行われていたと聞く。そんな史実もあるのだから、絵本の中の信じられないようなお話も、作り話と一笑に付すことはできないのかもしれないと、ちょっと背中がゾクリとする。

 

さてお話に戻って、軍の大将は、国中の残っている鐘を集め大砲を作った。そして、これまで見たこともないほど大きな大砲が出来上がった。いよいよ、その大砲をぶっぱなすときがきたのだ! ところがそのとき、大将の予想だにしない出来事が起こる……。

 

予想だにしないとは書いたものの、勘の鋭い読者には何が起こるかわかってしまいそうだ。それもきっと、作者の想定内のことだろう。青矢号やチポリーノと同様に、随所にユーモアと風刺が効いていて、最後までドキドキしながらお話を楽しめる。結末は、読者によって様々な解釈ができそうで、意味深だ。

 

この絵本で、ひとつ忘れてならないのは邦訳を担当したアーサー・ビナードの存在だ。あいにく私はイタリア語も読めないので、原作の雰囲気を感じることができないのだが、この絵本の日本語は重すぎず、軽すぎず、小さな子どもたちに読んであげるのにちょうどよいように思う。

 

反戦という重いテーマを扱いながらも、反戦絵本だからと気合を入れて読みたい大人たちに、「まあ、まあ、そんなに気張らずに……」とでも言っているような訳である。詩人の言葉は、考えられ、練られ、そぎ落とし過ぎることなく、適度な無駄(=余裕ということか)も感じさせる。肩の力を抜いて何度も読みたい反戦絵本である。